木のつぶやき | |
2003年10月27日(月) |
政見放送の手話通訳について(その2)
今回の衆議院選挙は明日公示ですから、あくまでも前回を踏まえた仮りの話しなのですが、衆議院選挙における「政見放送」は、各政党が決められた時間内のビデオを勝手に作って放送局に持ち込み、それを「そのまま」放映するものです。NHKのスタジオで、いきなり名札のついた机に座りカメラに向かって話しかけるという”あの”やり方ではありません。
だいたい県単位でビデオを作っているようで、前回書いたように茨城県の場合は、小選挙区7名+比例代表の茨城県分1名の計8名の候補者が「登場」します。自民党の場合は、その前後に自民党総裁(今は先日選ばれたばかりの小泉さん)がしゃべる全国版みたいなのがくっついています。
詳しくは調べてみないと分からないのですが、一人1分くらいの計算なのでしょうか?全体では9分ちょっとです。お隣の埼玉県は13名の候補者がいるとの話しでしたからもう少し長いのでしょう。
つまり各候補者は1分くらいの間に自分の言いたいことをいい、かつ、自分のイメージ(じゃなくて名前か?)を有権者に強く印象づけるような映像を盛り込むことになります。一人一人みんなバックの映像が違いますが、あれは候補者本人の希望なのかなぁ〜。自分の地元を背景にしゃべる人もいれば、黒のバックでコントラストの強い照明で候補者の顔を覚えてもらおうという意図の感じられるものもあります。原稿は、候補者本人が書いているのか、秘書さん作、なのか…分かりません。
事前準備が不可欠
前回は、事前にある程度の原稿をいただいたかなぁ〜? ぶっつけ本番は、ほんとにきついです。でも、そもそも政見放送のビデオは、出来あがり自体がかなりギリギリのタイミングなので、事前にビデオを見せてもらうこと自体が難しかったりします。
茨城県の広報番組「おはよう茨城」の手話通訳収録の場合は、前の週の金曜日くらいにビデオが届きます。「おはよう茨城」は15分くらいの番組ですが、それでも準備はむちゃくちゃキツイです。政見放送の場合は、話し手が一人だけですし、シチュエーション的には一般の講演通訳と同じなんですが、テレビカメラに向かって手話通訳をするのは、集中力の必要なかなりハードな通訳です。また、一人ずつ画面が変わりますので、候補者が話し終わるとほとんど同時に手話通訳も終わらなければならないので、実質的に「聞いてから通訳」していては間に合いません。予め候補者の話を頭にたたき込んで候補者と「同時に手話で演説」するようなタイミングが求められるのです。こうした作業を当日ぶっつけ本番でやるのは、神業に近いと思います。
また、「おはよう茨城」の時にも感じるのですが、手話表現を考えるのに「いったん文字に書き写して」みないとどうも上手くないのです。おそらく音で聞いただけでは、そもそも日本語自体をキチンと理解できないからではないかと思います。文字にして何度も読み直し、また、前後の文脈なども考えながら「どう手話表現したら一番適切か?」を考えるのです。ですから政見放送の場合もビデオを文字に書き起こす作業が不可欠ではないかと思います。
政見放送の手話「通訳」はどうあるべきなのか?
さて、政見放送の手話通訳を考える上で、今一番悩んでいるのが、「候補者の政権をそのまま伝える」という政見放送に関する公職選挙法規定との兼ね合いです。つまり、法律に照らせば「候補者の使った用語や言い回しをできるだけそのまま手話に置き換える」ことが政見放送手話通訳に求められていることのように思います。事実、前回2000年の選挙の時には僕もこうした考え方にできるだけ忠実に手話通訳することが一番大切だと考えていました。
でも、そもそも政見放送の手話通訳は、どうして付くことになったのでしょうか? そこには手話を用いる聴覚障害者の「参政権の保障」という考え方がベースにあったわけです。「候補者の政権をそのまま伝える」のであれば字幕スーパーが最適な方法ではないでしょうか。実際、前回民主党は手話通訳を採用せず字幕スーパーだけの政権ビデオを制作した訳です。なぜ手話通訳が求められるのか?という原点に返って、政見放送手話通訳を考えてみなければならないように思いました。
そこには「ろう者の言葉である手話で話してくれるのが一番理解できる」「ろう者の言葉で政見を語って欲しい」という聞こえない者の願いがあったはずです。それに応える手話通訳ということを考えれば、自ずと政見放送手話通訳は、手話を必要とするろう者の手話で表現することが求められるように思うのです。そんな力量が僕にあるかどうかは別として、このように考えてくると政見放送手話通訳はいっそろう者がやるのが一番いいのではないかという考えが浮かんできます。NHKの週間手話ニュースみたいにろう者が候補者の原稿に合わせて手話で伝えるのです。
とりあえず今僕にできること
今の僕には「日本手話」で手話通訳する力量はありません。でも、「音声日本語にとらわれず」「音声日本語の原義に最も近く、ろう者にとってできるだけ分かりやすい手話表現」を心がけることが大切ではないかと考えています。あっ、これは日本手話通訳士協会の方針とは何ら関係ないです。(士としては失格かな)
また、ワイプという小さな丸の中で表現されるという制約にも十分留意する必要があるように思います。前回のビデオを見るとワイプの丸が本当に小さくて、小さい上に手話がごちゃごちゃ早くてさっぱりワカラン状態でした。「画面上小さい」ということは、大会手話通訳のように「大きくゆったりした手話表現」が求められるということではないでしょうか?候補者の早口な政見とはどうしても相矛盾することなのですが、それでも「有権者に政見を伝えること」が手話通訳者の使命なんですから、このことはとっても重要なことのように思うのです。
こうなってくると候補者の「早口な政見」を「ゆったりはっきり見やすい手話表現」に置き換えるための手話通訳者の「力量」というものが高められなければならないことになります。これが「翻訳技術」っちゅうことになるんではないでしょうか。政治的な立場や対立する政党間の「用語の使い方」つまり「意味するところの違い」を踏まえた上で、「違い」を明らかにしながらも「偏ることのない」手話表現を追求していかなければならない訳ですね。これはとっても難しいことだし、手話通訳者だけではなし得ないことのように思います。
政治に対する関心を高め、今回の総選挙の争点は何なのかを明らかにするような作業を、ろう者と聴者が共同で取り組むような運動が同時に求められてくるように思います。とりあえずは新聞をきっちり読むところから始めようかな。
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