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カリキュラム項目 |
反 省 |
(1) |
以前に出した宿題5、宿題6の解説 |
ペーパーを渡すだけというのは、ちょっと寂しい気がした。それに宿題は第5回6月15日、第6回7月13日に出されたもので、時間が経ちすぎていると思う。
それに今日のテーマは、「聞き取り通訳」であるのに、読み取りの宿題の解説を入れるのは、混乱する。
講師が3人でクルクル変わる弊害だと思う。 |
(2) |
宿題に関連したプリント「聴覚障害者の社会生活」を配布 |
どういう経過でこのプリントが配られたのか良く理解できなかった。聴者講師の話では、「京都の聴言センターの業務内容を上手く説明できなかった。」とのことで、それについては、先日プリントを配布済みだったようだ。 |
(3) |
チェックシートの配布・説明 |
3つのチェックポイントは、講師用テキストに書かれたとおりなのだが、講師用テキストでは、「二人一組になってお互いの通訳をチェックし合いましょう。お互いのテキストにアンダーラインを引くなどすると分かりやすいでしょう。」とある。
そう、このやり方は、「原文のプリント」が不可欠なのだ。
なぜなら、「手話を見ながらチェックした部分をメモする」ことは実質的に無理だからだ。
受講生のチェックシートをのぞいたけれど、ほとんど何も書けていない。「手話を見ながら、読み取り内容をいきなり清書しなさい」と言っているような方法だからだ。
原文のプリントを表現する人数分(つまり一人17枚ずつ)配って、それにチェックしていく必要がある。最低限メモ用紙くらいはチェックシートと別に配らないとね。
僕も一人一人チェックしたことをノートにメモしたけど、とても全部は書けなかった。単語レベルで3〜5つくらいかな。それに「○○なクセがある」とかメモってると、もう他はほとんど書けなかった。
なお、付け加えれば「ライブで1回だけみて3つのチェックポイントを3分間で書き出せ」というのは、自分でやってみてかなり負荷が大きい作業だった。これを16人分2時間近くずっとやるのは、「講師として」は当然かもしれないが、これを受講生にやらせる意味はいったいなんなのだろうか?
だから講師用テキストは「二人一組で」としていたのだと思う。僕も前回、前々回、受講生にやらせるチェック担当は一人が2人分までと限定させた。チェックする集中力としても、受講生には2人分が限度だと考えたからだ。
最後の方に表現した人は、すでに他人の手話チェックでヘトヘトになっていたように感じた。
そもそも同じことを2時間も繰り返させるというカリキュラム自体が間違っていると思う。 |
(4) |
政見放送の手話通訳練習に入る前に「心がけ」についてプリント配布 |
詳細は、プリント<木下解説>の部分を参照。
配ったプリントには「心がまえについて話し合ってみましょう」と書いてあるが、「心がまえ」そのものについては、どこにも書かれていないのだ。
「政見放送手話通訳に対する心がまえ」がキチンと整理されて、箇条書きになってるプリントがあったら、素晴らしいよね。 |
(5) |
プリントに沿って「選挙や政治に関わる専門用語」の手話解説 |
同上。
手話解説と言いながら、「解説」はどこにも書かれていない。(研究用の記述記号はいろいろ工夫されているようだが)一般的な筆記文字が定まっていない手話は、常にこうした課題を抱える。
結局、日本語(音声語)の単語が羅列されてるだけになっちゃうのだ。
イラスト入りの手話解説を作るには、辞書をコピーして切り貼りするしかない。大変な作業だけれど、実は受講生にとって一番必要としているのは、そうした「イラスト解説付き」の専門用語「解説」プリントなのだと思う。 |
(6) |
ビデオ放映×2回 |
どうして「先に見」てしまうのだろうか?
予め指名してあった4名の受講生は、受講生なりに工夫し練習して来ているのに。
しかもビデオの手話がまた冴えないときているから、余計に残念でならなかった。
まず、4名に表現させて、その後、他の受講生に表現させ、最後に「ビデオの手話通訳者はどんな風に表現しているでしょうか」と「模範解答」を示すのが、オーソドックスなやり方だと思う。 |
(7) |
聞き取り手話表現通訳→ビデオ撮り×全受講生 |
一人の手話表現が終わると、他の受講生は、下を向いて必死でチェックシートの記入をする。
講師は、表現した本人に向かって、一言二言コメントするのだが、他の受講生はこれを見ることができない。
また、次に表現する順番の人もチェックシートを書かなければならないので、「急いでチェックシートを書いて慌てて通訳に向かう」状態になってた。
本当は人の表現を見て、頭の中で一緒に練習したり、講師が他の人の評価を述べれば、それを参考にして自分の表現を微調整し、自分の順番を待つべきだと思うのだが。
17名もいるクラスで「毎回全員」に拘る必要はないと思うのだ。 |