木のつぶやき
1999年11月28日(日)晴れ

 マスコミとろうあ運動

 この週末は、2日間かけて「たましろの郷」関係の資料整理をやりました。
 古い資料などいろいろ読み返しながら、必要なものをコピーして、最終的にはマスコミに対する「報道依頼文」を書きました。
 12月から始める街頭宣伝活動をマスコミに大いに報道してもらおうと思ってのことです。幸いマスコミへのアプローチを手助けしてくださる方が現れ(まさに救世主のごとく・・と僕には思われました)、いろいろアドバイスくださり「資料と共に一文書いて付けたらよろしい」とのことで、ない知恵を絞って、何とかマスコミに「たましろの郷」のことに関心を持っていただけるような文章を考えました。
 その経過の中で、全通研東京支部ニュースの今年の6月号に掲載された「たましろの夢を語る」パート2が目に留まりました。これは、4月18日に行われた東京支部の定期総会に先立って行われたトークショー(要するに対談ですね)の記事でした。
 トークショーは、市川恵美子支部長が聞き役となって、花田所長が「たましろの夢を語る」というもので、最後に市川さんが「花田さんのイメージにある施設の夢って何ですか?」という問いに対して花田さんが次のように答えたものです。

花田;
 最近言われている地域福祉、健康な人も障害者も高齢者も共に生活できる社会、大賛成です。障害者だから施設に入れば済むというものではない。高齢者だからといって老人ホームに入ればいいというものじゃない。地域で共に生活できれば良いに決まっている。
 では、「地域」ってなんだ。
 国の言う障害者福祉の範囲で言うと「生まれ育った場所で共に・・・」という言葉を使っている。「生まれ育った場所」という意味は、結局は「障害者は親と一緒に生活しろ」と言っていることだと思う。「施設にいれずに親が面倒見なさい」と言われたのと同じ。
                          (中略)
 ろう重複でもふつうのろうあ者でも、地域に一人で入った時に本当に共に生活ができるのか、集団とは共通のコミュニケーションが成立して初めて成り立つものだ。
 共通の意志が伝え合える方法がないまま集団に入っても、何ら参加した意味はないと思う。
 そういう意味で私自身は、たましろとは永久に生活する場であってはならないと考えている。逆に身振りを覚えて、最低限自己主張を表せる技術を身につけて社会に参加しても遅くはないじゃないか、そのために多少時間がかかってもいいじゃないか、そういう意味では「社会の出発点」であっても良いと思う。
 もう一つは、これはある施設の親から言われてハッと気がついたんですが、その施設で「ある盲の女性と男性の仲がいい」ので結婚を薦めている。そのことを職員がお父さんに話したところお父さんはカンカンに怒った。
 「結婚に反対ではない。うちの子がモルモットのように使われて『施設に入れば結婚できる』と宣伝されるのがイヤだ。結婚は自然に結びつくのはいいけれど、周りが突っついて宣伝材料に使われるのはイヤだ」というわけです。
 これを聞いて「かたつむりは宣伝に使っていなかったか」「もっとありのままで、リーダーは誰も作らなくても良いではないか」「最低限仲間が一緒になればそれで良いではないか」と思った。
 そういう意味でマスコミとか新聞とかテレビとかはできるだけ断っています。寄付金は入るかもしれないけれど、原点が固まらないままわーっと盛り上がっている。そういう形での寄付で施設ができてもやっぱり良いとは思わない。
 1円、10円を本当に納得して出し合える仲間が増えて施設ができるなら、十年かかろうと二十年かかろうと長いとは思えない。
(以下略)

 資金プロジェクトでは、1億5千万円なんて資金を生み出すには、マスコミを通じて一般社会に資金援助を求めなければ、到底達成できないと考えている。街頭宣伝もその一環だ。
 花田さんの言われる意味では後援会会員をいかに増やすかが問われてくるだろうが、一方で今の社会で「宣伝」を否定しては誰も見向きもしてくれないのは、悲しい現実だと思う。マスコミへの売り出しってホントに難しい!

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