木のつぶやき
1999年8月23日(月)晴れ

 仲間たちとの接し方について−その2−

 寝食を共にして、「じっくり話せたから、通じ合えた」経験をした。

 以前、手話サークルで活動している頃、「片マヒ」(体の左半身にマヒがある)のメンバー(聴者=聞こえる人)と喧嘩したことがある。
 彼は、左手(だったと思う)が麻痺しているので手話が「半分」になる。片手でも通じる手話もあるけれど、どうしても片手では伝えきれない言葉もたくさんあった。
 彼は、「片マヒの者でも表現できるような手話を教えて欲しい。」と主張したけれど、僕の知る限り、それは個人的な工夫に頼るしかなかった。
 彼はさらに「それなら片マヒの者でも表せるような手話をみんなで工夫して考えて欲しい」と主張した。僕は、「聞こえる人間が勝手に手話を作ることは出来ない。アナタ自身の伝える工夫をすべきだ」と譲らなかった。
 彼は「あなたたちは片マヒのことを理解しようとしない。冷たい人間だ」となって、僕は「アナタの努力と工夫で通じるはずだ」と最後は言い争いになって(というか僕がまくし立てたというのが正しいのかもしれないが)、結局彼とはそれ切りになった。

 その頃の僕は、手話サークルの代表として「マス=大勢の人」を対象として思考し行動していた。一人の片マヒのメンバーのためにサークル全体の計画変更はできない、と考えた。
 ただでさえ、手話という言語を学ぶには会員が多過ぎて、にっちもさっちもいかなくなっていた頃でもあり、とても彼の要求には応えられる余裕はなかった。

 今回、海水浴に参加して、「片マヒ」の仲間が意外と多いことに気がついた。そして、それは聴覚障害を持つ仲間として、手話コミュニケーションの上でハンデが大きいことにも気づかされた。
 手話を読み取れないのである。
 最初、それは、仲間の手話が「あいまい」だから読み取れないと勘違いしていた。
 けれども、一生懸命話しているうちに、それがただ単に「片手で表現しているために分かりにくい」ことに気がついた。だからといってすぐにスラスラ話せるようになったわけじゃないけれど、このことは結構大切なことのように感じた。
 僕は、仲間の中に知的発達障害を併せ持つ仲間がいることから

<仲間の言うことには、訳の分からん事もある>という先入観を持っていたように思うのだ。

 「これは、いかん」と大いに反省した。僕の読み取る力が足りなかっただけなのだ。読み取ろうとする努力が充分でなかっただけなのだ。
 
 そして、また、「時間をかけて通じ合おうする姿勢」が、何よりも仲間にとって大切な事なのだということにも思い至った。
 通じるまで何度も話す。繰り返し「今、何て言ったの?」と尋ねる。分からないときは「分かりません、もう一度お願いします」と一生懸命頼む。手間暇と時間をかけることが大切なのだ。

 私は、とてもセッカチだ。気が短い。中学2年の「立志式」(なんてものが田舎の中学には残っていたのだ。昔の「元服」なんだろうね)で、立てた志はズバリ「根気」だった。
 あれからウン十年経った今でも「根気がない」「コツコツやるのが大嫌い」なのだ。
 なんのことはない、サークルの片マヒの仲間の要求を放置したのは、彼の分かりにくい手話を読み取るのが「じれったくて、面倒くさかった」だけだったのかもしれない。
 僕に、こんな偉そうなことを書く資格はないかもしれないけれど・・・

 「ゆっくりとした仲間の時間」にどこまでも付き合おう。このことをこれから大切にしていきたいと思った。

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