木のつぶやき | |
2003年1月13日(月) |
成人の日
成人の日を、僕は東京に出てきて2年目の冬に迎えました。
その頃は、アパートで一人暮らしで、何をするでもなく「ああ、今日は成人の日なんだ」とか白けた気分でいたように思います。
そして、その1ヶ月後、僕は手話と出会うことになるのです。
その時に入ったのが、東京都日野市にある「ひの手話サークル」でした。当時のノートを見ると、いきなり4月の予定が貼ってあって、
4月4日 社会教育センター 手話通訳学習
4月4日 高円寺青年館 都サ連(東京都手話サークル連絡協議会)実行委員会
4月5日 代々木公園中央広場 都サ連全体集会
4月8日 社会教育センター 日野市手話講習会事務局会議
4月11日 社会教育センター 運営委員会
と記してあり、その下に当時の役員さんたちの懐かしい名前が書いてありました。
運営委員長 五十嵐
副運営委員長 三浦・天野
記録・編集 斎藤・木下・伝法
学習・企画 小林・三浦
会計 渡辺
連絡 福島・天野
広報 上条
都サ連担当 添原・五十嵐
調査・資料 伊倉・石島
2月に入ったばかりの僕が、すでに4月には運営委員の一人になっていたわけです。まだ手話など全然できなかったはずですが、それでも先輩達が一生懸命にフォローしてくれたおかげで短期間でみんなになじめたのです。当時の手話サークルには、そんなアットホームな雰囲気がありましたし、運営委員長の五十嵐さんが「運動の中から人が育つんだ。だから新しい人もどんどん運営に参加してもらえるように積極的に誘っていこう。」という姿勢が、みんなの中にありました。
その次に書いてある運営委員会の記録には、5月の憲法記念行事の手話通訳保障のことが書かれていたり、町田市の手話サークルとの合同学習会のこと、あるいは9月の日野市青年フェスティバルに手話サークルとしてどのように参加していくのか?が書かれており
「コーナー参加が手話サークルとしての主張を通すことにつながるのか?」
「手話通訳など聴覚障害者が楽しめる配慮をしてゆくべきであろう。コーナーに固執するのでなく、聴覚障害者が楽しめるような方向に」
「手話通訳の保障をしてゆきたい。その上でコーナーかコーラスを設ける」
なんて問題提起もしてありました。ものすごい熱気にあふれていました。
さらには、「公的保障について」という項目があって、日野市手話通訳派遣事業を作るための議論が行われていました。
その他、「聴覚障害者協会との定期協議」や「日野市手話講習会の準備」などとにかく盛りだくさんな内容でした。
僕は、ひの手話サークルに入ったことで、それまでとは全く違った生き方を見つけました。そしてこの20年間を「息を切らして駆け抜けてきた」ように感じています。
僕は、「いいことばかりじゃないけれど、次の扉をノックしたい」というミスチル(ミスターチルドレン)の歌が好きです。
「どこかに自分を必要としている人がいる」というのは、思い上がりかも知れないけれど、でも、やっぱり人って「必要とされる自分」が大切なんじゃないでしょうか? そして僕もいろんな人を必要としているのです。
そいでもって、「結局全てが嫌になって、そっと逃げ出したくなるけど、高ければ高い壁の方が登った時気持ちいいもんな」「まだ限界だなんて認めちゃいないさ」って考えるようにしています。東京でいろいろ迷惑掛けまくったことや、手話通訳者としての自分の経験不足や力量のなさを思うと、本当に「そっと逃げ出したく」なります。でも、僕は「自分で自分の限界を決めちゃいけないな」と考えようと努めています。
そう、「生きるためのレシピなんてない」のです。
もう一つ、僕の好きな歌が「果てしなく続くストーリー」というMISIA(ミーシャ)の歌です。
この歌は愛の歌なのですが、「思う道をあなたは ただ進めばいいの」「果てなく続く夢は 小さな星を廻し続けてる きっと」というフレーズが自分を勇気づけてくれるのです。「夢」って大切だと思います。「いつかこんなことしたい」という僕の夢は、「茨城にろう重複者のための地域作業所・生活の家を作るための応援をしたい」というものです。今は全く何もできていません。でも、僕は考えるのです。「とにかく自分の思いを聞いてくれる人を茨城に増やしたい。木下の話に耳を傾けてくれる人が茨城に一人でも増えて欲しい。そしていつか僕はそれらの人に”ろう重複者の作業所作りを一緒に応援しましょう”と言えるようになりたい。」
僕も自分の小さな夢を回し続けていきたいと思っています。
新成人の皆さん、夢を抱いて、これからの人生を駆け抜けよう!
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