木のつぶやき | ![]() |
2002年12月28日(土) |
聞こえる自分と聞こえない仲間達
・このところ、少々メゲる出来事が続きました。「ました」というのは、お陰様で今は元気になったのです。人の「やる気」とはいったい何だろう?なんて考えてました。 最近は「モチベーション」なんてカタカナ言葉で表すことが多くて、国立国語研究所が12月25日に発表した「外来語についての言い換え例」にも取り上げられていました。
<手話通訳者養成の講師をめぐって>
・例えば、「僕は、なぜ手話を続けているのだろうか?」 このモチベーションは友人のろう者と「友だち」である限り、つまり一生失われないと思うのですが、「どうして手話通訳者養成の講師などという自分の力量に不相応な仕事を引き受けているのだろうか?」こっちのモチベーションは、はなはだ心許(こころもと)ないのです。
・最近、繰り返し頭に浮かぶのですが、語学として「手話」を学ぶことと、人と人をつなぐための「手話通訳」を学ぶことは、学習内容も異なれば、カリキュラムも違うし、指導者としての適性にも別の能力が求められるように思います。
・それくらい「手話通訳」というのはシンドイ仕事だと思うのです。安易な挑戦を許さないような孤高な仕事というのか、聞こえる人にとって全精力を傾けなければ、そう簡単には引き受けられないような仕事だと感じています。そんな仕事を「人に教える」というのは、さらに「その上」をいくわけです。
・そんなことをおいそれと引き受けた自分を後悔してることが多い最近です。通訳って、何だろうということがどうも自分でもよく分からなくなってきてしまっているのです。何が「良い通訳」なんだろうか?ということを簡潔に後輩達に示せないまま指導に携わっている自分が「うそつき」に思えて仕方ありません。モチベーションが急降下しています。
<そもそも「通訳」とは?>
・手話という言葉を学ぶことは、「ろう文化」という聴者とは異なった文化を学ぶことであるというのは、おぼろげながら分かってきている「気がします」。(というのは、「ろう文化」とは何か?と尋ねられても、なかなか上手いこと人に説明できないから「気がする」レベルなのです。) しかし、「手話通訳」は、ろう文化と聴者文化をつなぐ橋渡しの役割を担うものですから、「双方の文化に精通」した上で、両者を「つなぐ」ということが一番に求められることになります。
・この「つなぐ」という行為は、一方から見た他方の文化を考えるのではなくて、双方の文化の違いを超えて、お互いの理解を築くことが、目的ですから、聴者文化にとって当たり前のことを、「ろう者も理解するのが当然だ」として押しつけるのは通訳とは言えません。逆に、ろう者はこうやるのだということを聴者にそのまま伝えて、逆に聴者から違和感をもって受け止められ相互理解が進まないのでは、通訳の任務を果たしたとは言えません。
・しかし、現実には、現在の社会は圧倒的に聴者社会なワケですから、聴者である僕が、「こうやればいいのに」とか「こんなこと当然なのに」と思うことが「常識」で、逆にろう者が「それはおかしい」とか「木下は間違ってる」と指摘しても、僕の中でなかなかすんなり受け止められないことがあります。僕の中に「僕は何もそんなつもりじゃないのに」とか「聞こえる先輩は簡単に分かってくれるのに、なぜろう者は分からないのだ」という気持ちが生じてしまうのです。
・やっぱ僕の通訳論は「聴者版の押し付け」通訳論かもなぁ〜と自信がなくなります。
<手話通訳という作業の解明>
・例えば、先日の通訳者養成講座では、読み取りをやって、それをろう講師が詳細に解説してくれたのですが、一つ一つの手話に込めた講師自身の思いと、それを日本語に「通訳」したものとは全く同じなのでしょうか? この間読んだ「通訳・通訳ガイドになるには」(エイ・アイ・ケイ教育情報部 編著、ぺりかん社)には、「通訳は話し手が話す言葉を一語ずつ、頭の中で変換して、ひとつの文章にならべ替えるというように誤解されがちです。これは学校英語の訳し方で、通訳の場合はそうではありません。通訳者の頭の中では、文節や意味のまとまりごとで内容を理解して、他の言語に置き換えるという処理が行われています。」とありました。
・つまり(A)手話の読み取り段階の理解と、(B)最終的なアウトプットとしての日本語のチェックの2段階があるように思います。これをどのように指導していったらよいのか? これまでの読み取り学習は、主に(A)について、主としてろう講師から「指導」されてきたように思います。しかし、実際の読み取り通訳というサービスを受けるのは聴者ですから、現場では(A)(B)を同時にかつ瞬時に行うような力量が要求されますし、日本語が伝わってナンボの世界だと思うのです。
・何がいいたいのかというと、(B)の学習が不十分だと思うし、(B)の学習におけるろう講師と聴者講師の役割みたいなことがどうにもしっくりこないのです。「通訳」養成をやりながら、単なる英語の読解みたいなことやって終わりみたいな講座になってることをどのように打開したらよいのか、分からないのです。ろう講師と共に「通訳」という行為を共通理解し、かつ「一緒に」指導していくことの難しさにメゲそうになるのです。
・何て言うか、「手話通訳」という作業がもっと詳細に解明されないと、そしてそれをろう者と聴者が共通して理解できるような形で提示できるようにしていかないと、ろう講師と聴者講師の間の役割のあいまいさはなかなか解消できないような気がしています。
・ふ〜、今回のつぶやきは3回+1回も書き直したのですが、それでも何が言いたいのかワケが分かりませんね。また、頭がクリアーになったら書きたいと思います。
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