活字情報

本だな6

タイトル 人はなぜ働かなくてはならないのか
著者 小浜 逸郎
出版社 洋泉社・新書Y
発行日 2002年6月21日 初版発行
読了日 2002年7月18日
価格 740円+税

読んだきっかけ

「せたつむり2002」には、初めてのUPですが、最近「面白いな」と思って本屋でチェック入れてる人の一人です。すでに『なぜ人を殺してはいけないのか』『中年男に恋はできるのか』(いずれも洋泉社Y新書)『「弱者」とはだれか』を読みました。

(『「弱者」とはだれか』については、<きのこ森さん>という方の「休むに似たり」というサイトに、僕も納得!の書評がありましたので、是非、参考にしてください。この方の「本棚より」のコーナーに掲載された書籍は、僕の興味を大いにそそりました。「うっ、これも読んでみたい!」と思う本がたくさんありました。人のホームページを読んでも滅多にこういうことないんですが、僕の場合・・・。)

かたつむりアイコン読後感

 僕は、これまで「かたつむり」を応援しながらどこか「自分はサラリーマンやって自分の生活はちゃんとキープしながら片手間にボランティアやってるだけ」っていう変な「負い目」みたいな感情が心の底にあった。
 それは、「ろう重複者に働く場を」といいながら「働くこと」に対して、どこか後ろ向きな自分を感じていたからのように思う。「サラリーマンなんて、こんなもんさ」というか「5時までの自分は食べるため、5時からが自分の本当にやりたいことができる時間」みたいな気持ちといったら分かりやすいかな。
 そんな自分にとって「人はなぜ働かなくてはならないのか」という本書のコンセプトは、実は結構「避けて通りたい」テーマだったりした。

小浜逸郎さんは、働くことの意義として

◆労働の意義を根拠づけているのは、私たち人間が、本質的に社会的な存在であるという事実そのものである。(114頁)

というように定義した上で、次の3つの意味が含まれていると整理している。

◆一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。(114頁)

◆第二の意味は、そもそもある労働が可能となるためには、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。(116頁)

◆そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒体になっているという事実である。(116頁)

そして、ヘーゲルの次のような考え方を紹介している。

◆各人が自分の欲求を満たすという主観的な動機にもとづいて行った労働の投与が、全体としては、たがいに他人の欲求をも満たす相互依存の生産機構という「共同の財産」を作り出す結果となる。もしそういう共同の財産のネットワークが市民社会にきちんと整っているなら、それによって、だれもが自分の労働を通じて社会から一人前であるとして承認され、慈善や憐憫に頼るような奴隷的なあり方とは違った、人間的な自立と自由とを実感することができるのだ。(122頁)

この「他者の承認の声による自己承認」こそが働くことの意義なのだとして、「働くことは、人間が、人間でありうることの条件の意味をもっている。」なぜなら、「自分の欲求を満たすための自発的な行為は、自他に対して『表現的』であり、ただちに関係的、共同的な『意味』をもったものとして他者の生のあり方に反映し、さらにその他者の生のあり方がまた、みずからの生のあり方を規定するものとして還ってくるというように、不断の相互連関の過程におかれているからである。」とまとめている。

このまとめでもって<かたつむりの仲間たちも、しがないサラリーマンの僕も、働いているっていう意味においては、なんら変わるところがないんだなぁ〜>と妙に納得してしまった自分も恐ろしいんだけど、とにかく僕は、なんかちょっと<救われた気持ち>になったのです。

そして、さらに僕はこの本を読んで<これまで茨城のろう重複の運動に、なかなかキチンと関わってこられなかったけど、それはやっぱ、茨城にはまだろう重複の仲間たちの「働く場」がなくて、運動はまさに「働く場」を求めているのに、僕自身に「働く場」が必要だっていう強い意志が育ってなかったからかもしれないなぁ〜>と考えたのです。

僕は、「人はなぜ働かなくてはならないのか」を読んで、「そう、ろう重複の仲間たちも働かなくてはならないのだ!」と強く感じるようになった。それは、かわいそうだからとか、親亡き後のためにとか、じゃなくて、まさに仲間たち自身の存在のために「働かなくてはならない」と思ったのだ!

う〜ん、茨城にも絶対仲間たちが働ける場を作るぞ〜!(^O^)

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