【資料】安藤・高田論文
第8回世界ろう者会議提出論文
<1979(昭和54).6.1日本聴力障害新聞より(縮刷版(4)より転載)>
日本における近代的ろう教育は、フランスやイギリスのろう学校創設におくれること約100年、1878年の京都唖院の設立によって始まった。
かって、ひとりひとりバラバラになって暮らしていたろう者に、やっと集団として学びあう場所が保障されたのである。
世界的に共通していえることであるが、ろう者に集団として教育の場が保障され、次に続く社会生活におけるろう者自身の成長のなかで、手話の成立と発展がみられる。
日本においても事情は同じであり1878年に創始されたろう教育が、その教育手段として手話を採用したことによって、ろう者のコミュニケーション手段としての手話は言語的機能の発達の機会を得た。
しかしながら、第二次世界大戦前後ともいえる1925年前後をさかいとして、手話教育を主流とするろう教育は、口話教育へと大きな転換をとげていく。手話教育の口話教育への転換は、単なる方法論の問題にとどまらない。その底流には手話に対する偏見、ひいては障害者蔑視の非民主的人間観が渦まいていた。
ここに、社会人としてのろう者集団とろう教育の不幸な分裂が始まった。しかし、当初のろう学校卒業生の社会生活、それはろう者同志の親睦、慰安的集団の形成、労働への参加とそれに伴った市民生活への融合が、ろう教育の手話への離反にもかかわらず、新しい手話を拡大していった。
このように手話の成立を保障したのはろう教育であるが、その発展とろう者言語としての手話の定着を果たしていったのはろう者自身であった。
ろう者の社会生活における主要なコミュニケーション手段は、ろう教育の創始以後、手話であった。それは1925年前後のろう教育の手話教育より口話教育への転換のあともかわらない。したがって、ろう者は日常生活に手話通訳を必要とすることが少なくなかった。
手話が公教育としてのろう教育の方針に反し、したがって社会保障の手段として公認されるようなこともなく、むしろ手話の使用がろう者に対する偏見を助長するなかで、少数のろう学校教師を中心とする社会活動家が、ほとんどの場合、自己犠牲的に手話通訳の役割を果たしていった。職業の紹介、離転職の相談、結婚の世話、財産相続、事業助言・ろう者子弟の教育への助言等々が、その通訳活動の内容であった。
公教育が教育手段としての手話を否定し、それも遠因となって、手話通訳を日常生活面における公共サービスとして、したがって、職業として公認するような制度的保障は、当時の日本にはなかった。
しかし、法律には刑事あるいは民事裁判にあたって、ろう者の弁論には手話通訳を立会わせることの規定がすでにあった。重要な、人間としての生活と生命、財産や具体的な諸権利に関する判断の下される法廷における通訳の保障は、法律において定められていたのである。
ここに、社会におけるろう者実生活から遊離したろう教育の矛盾の一断面をみることができる。
そういう事情のなかで、地域的なろう者集団は、全国的な集団として発達をとげ、現在の日本における唯一の全国的ろう者団体、財団法人全日本ろうあ連盟の前身たる社団法人日本ろうあ協会が1925年に発足した。しかし、それは戦争の激化に伴なう国策としての団体統制の方針によって、ろう者の要求にもとづく社会的活動も十分な開化のないまま、1942年に解消させられ、手話通訳者も又、その例にもれず通訳者同志の集団を持てぬまま孤独な活動を続けた。
第二次世界大戦は、1945年日本の敗戦によってその終結をつげた。敗戦は、日本に民主化をもたらした。1946年に制定された新憲法は、すべての国民が法の下に平等であり、基本的人権の享有、集会、結社、団体活動、言論の自由を保障した。
このような時期、1947年に全日本ろうあ連盟が再建された。 戦前の運動は、当時の社会的制度の制約もあって、恤救慈善、相互親睦、慰安の事業活動が中心であったが、敗戦後はろうあ者の権利の主張、生活擁護の要求運動を中心としたものに発展していく。
しかし、ろう教育は依然として口話教育が中心であり、ろう者を含めて障害者全体に対する社会的偏見はなお根強く、戦前よりの上意下達の風習が完全にされきれず、本格的な要求運動に転換していくことには、なお相当の日時を要する。
それでも、その間に肢体障害者、視覚障害者との合同の会議、行政体への交渉等々を通じて、全日本ろうあ連盟あるいはその傘下の地域ろうあ協会の、社会的活動のより広い分野への展開は、手話通訳についての社会的理解をひろげ、その行政的保障を徐々にかちとっていった。
1965年前後は、日本のろう運動なかんずく手話通訳の保障に関して記念すべき年代であった。
1963年9月1日に、京都市に手話を学ぶ健聴者の集団として、手話サークル「みみづく」が誕生し、これが大きく社会反響をよぶなかで、全国各地に続々と手話サークルが結成されていった。
1966年12月21日、京都府議会において、府会議員がろうあ者問題について京都府知事に質問する際、議場内に手話通訳を配し、これをろう者多数が傍聴した。
1967年1月22日、東京都中野区立大和小学校で、総選挙の立会演説会に手話通訳者が壇上に配置され、このことはやがて全国に波及。
これらの画期的な出来事は、偶然におこってきたことでなく、未熟ながらも、全日本ろうあ連盟を中心とするろう者の地味な、しかし粘り強い運動が、ようやくにしてその結果をもたらしはじめた証左である。
そして、このような状況を背景として、1968年5月31日から6月3日にかけての第17回全国ろうあ者大会に並行して、同会場ではじめて全国手話通訳者会議がもたれ、全国から71名の手話通訳として活動している人々が参加した。日頃、手話通訳として孤独な活動をつづけてきた人々が一堂に会し、つきぬおもいに 語り明かした夜は、万感胸に迫るものがあったであろう。
この会議で提起された理念あるいは問題等について、2つの流れのあったことが、全日本ろうあ連盟の機関紙聴力障害新聞に報道されている。
そのひとつは「ろう者の権利保障、団体活動の現状および発展の中で、手話通訳の意義をどうとらえていくかという関心」であり、もうひとつは・燒]ましい教育およびコミュニケーション手段として、現在の手話をどう改善していけばよいかという関心と提案驕Bこれは二者択一ではなく相互補完として意義をもつものであるが、いずれを先行させるかは、おろそかに出来ぬ課題である。
「手話通訳は、ろう教育の未熟により教育不十分なろう者の社会生活上の便宜のための過渡的な存在ではない」と前者は主張する。「通訳活動は対話や会議内容の即時的伝達路であり、ろう者がする主張や発言の原動力である。民主主義にとって自由な討議はその基礎であり、民主主義に基づく社会に生きるろう者にとっての通訳活動は、ろう者が主体的に社会に生き、社会との連帯の中に生きるための重要な役割を担うものである。」
結論的に客観的な事実として、多くの市民的権利を与えられていないろう者の生活を守りその権利の側に立つことが、手話通訳の基本的使命でなくてはならない、と主張したのである。この主張は、手話通訳の技術に先行する理念として、その後のろう運動と手話通訳活動の発展によって正しさが立証されていった。
戦後のろう運動がめざしたものは、ろう者の生活と権利の擁護である。手話通訳は、この運動を母体として誕生した。ここに日本における手話通訳の誇るべき特質がある。
ろう教育が、ろう者の社会生活の実態と要求から遊離し、そのことが、ろう者の社会生活と評価に否定的な影響をおよぼしたが、この結果、手話生活者であるろう者が、社会生活の上でろう教育の干渉からはなれて、全く自由に運動方針を決定し、かつ進め得たことは興味深い事実である。
第1回全国手話通訳者会議の「ろう者の権利の擁護者としての手話通訳」という主張は、ろう運動の成果を見事に示したものである。
当時の手話通訳の少なからぬ人々は、ろう学校教師であった。ろう運動は、その実践の中で、ろう教育の中からもすぐれた共鳴者を獲得していったのである。
手話に対する社会的認識の高まりと手話サークルの誕生に力を得て、ろう者の手話通訳の公的保障を要求する運動にも力が入っていく。 議会における手話通訳あるいは立会演説会の手話通訳配置は、通訳保障の画期的な転換点であった。しかし、ろう者の日常生活における常時の手話通訳保障までにはまだ道のりがある。
全日本ろうあ連盟の指導の下に、全国各地で国に対し地方自治体に対し、通訳保障の運動は粘り強く取り組まれていった。国会、地方議会に対する請願、政府、自治体に対する陳情、交渉、街頭デモや署名運動と、考えられる限りの方法で運動は進められていった。
その結果、国の段階では手話奉仕員養成事業が1970年に開始され、73年には手話通訳設置事業が、76年には手話通訳派遣事業が地方自治体に対する補助事業として開始された。
この国の事業に先んじて、革新的な地方自治体を中心として、手話通訳を公務員として、また嘱託、ろうあ協会などの団体委託として採用し、通訳設置、派遣を行うようになり、1978年には辺地をのぞいて、通訳の身分保障とその数、内容に問題を残しながらも、全国的に手話通訳の公的保障が可能な状況となった。
このような経過の中で、これらの手話通訳者、手話サークルの会員を中心として1974年に前述手話通訳者会議を土台とする恒常的な組織として全国手話通訳問題研究会が結成された。 これは、手話通訳活動の前進のためには手話通訳者の集団化、組織化が必要であるとする全日本ろうあ連盟の方針をうけて全国的規模で結成されたものである。 研究会は、その構成メンバーを職業的、半職業的手話通訳を中心とする点で、市民的な有志を幅広く結集した手話サークルとは兄弟的な関係を維持しながらも区別される。
1978年8月、静岡においてこの全国手話通訳問題研究会と全日本ろうあ連盟の共催で、前述の手話通訳者会議の発展として、11回目の集会が開催され、このろう者、健聴者の合同集会は、一泊二日で延3000人の参加を得て大きな盛り上がりをみせた。
手話通訳に対する社会認識を高め、最初の手話通訳者会議の開催を成功させた要因の一つとして、全国各地における数多くの手話サークル結成を重視しなければならない。 手話サークルは、ろう運動が育てた健聴者のろう者に対する協力組織であり、ろう者と健聴者の社会連帯のあかしである。
最初の手話サークル「みみずく」は、前述のごとく1963年9月1日に京都市に誕生した。 そのきっかけとなったのは、病院に入院した一ろう者と看護婦の交流であり、それに注目した当時の京都府ろうあ協会長の指導によって、看護婦、学生、若い労働者等を中心として、わが国で初めて健聴者が手話を学ぶサークルが生まれた。 この背景には京都という進歩的、革新的風土とすぐれた活動をくりひろげていた京都府ろうあ協会の存在、経済至上主義に産業優先政策に対する社会的反発として、社会福祉がようやく国民的注視をあびつつあった過程がある。 ともあれ、この手話サークルの特色は、健聴者の障害者に対する保護者観、優越感を排除して、全く対等平等の立場で社会的連帯をうたうことにある。このことは“みみづく”会則の目的にみることができる。 “手話を学んでろう者のよき友となり、共に手をつないで差別や偏見のない社会を実現するため努力すること。そのために必要な学習や事業を行うことを目的とする”。
実際の活動がこのとおりに行われたとは言えない。しかし、ろう者の権利をある時には正しく、ある時には過度に主張し、ろうあ協会と時として意見の衝突を繰り返す試行錯誤を重ねながら、次第に成長し、今日まで幾多のすぐれた活動家を育ててきた歴史は高く評価される。
京都において誕生したこの手話サークルは、ろう運動を通じ、あるいはマスコミ報道によって、またたくまに全国にその組織の根をひろげ、みみづくが創立15周年を迎えた1978年現在、日本における手話サークルはその数およそ500、構成人員3万という数に成長している。
わが国における手話通訳の歴史は、これまでに述べてきた事柄によって理解されるように、ろう者の要求によって生れ、ろう者の運動によって発展を得た歴史である。 この歴史は、ろう者の権利を守る手話通訳といった理念に、その結実をみることができるように、民族、国情、風習をことにする対等な関係の異国人間の通訳、国語の置換を任務とする外国語通訳とは決定的にことなる存在としての手話通訳を示すものである。
手話通訳は、貧富の差を別とすれば、生活条件を等しくする同一国の人々の間において疎外されたろう者の復権について責任をもつものである。手話通訳は、その言葉からして外国語通訳と同次元で理解されやすいが、この理解は明らかに誤りである。 このような理解にもとづく手話通訳論は、個々の通訳場面における通訳技術の巧拙にその終着駅を見出す技術論の粋をこえることができない。これは手話通訳にかかわる任務の特小化に他ならない。
ろう者の権利を守る手話通訳は、一つの理念である。この理念を一面的に単純化して、ろう者の保護者として手話通訳を理解することがあれば、それは誤りである。それは、ろう者の社会的自立、いいかえると、社会的行動の自由の獲得のための協力者であり援助者であるとすることが正しい。
社会的自立の達成のためには、ろう者自身の自覚的努力と人間関係をも含めた社会的制度の整備されることが必要である。
ろう者が手話通訳に期待する必要条件の一つとして、即時性を含めて常時性をあげることができる。必要な時いつでも即時に手話通訳を得ることを求めるのは、ろう者にとって自然である。このことは健聴者に常時聴覚が備わっていることと対応する。 しかし、この常時性の保障を手話通訳制度の発達、手話通訳の増員にのみ求めることは危険な側面を含んでいる。それは、ろう者の社会的行動の自由が、手話通訳の有無によって左右されかねない側面である。ろう者の要求する手話通訳の常時性は、いわば見かけの部分であり、その本質は、社会的自立にあることを見誤るべきではない。 この見誤りは、手話通訳のろう者コミュニケーション保障の単なる一手段化をもたらす。そこには、重要な人間関係の発達をみることはできず、金銭に換算される労務の被提供、提供の関係が残るだけであろう。
ろう者の医療関係通訳の依頼は多く、かつ、時間的にも集中する。内容の複雑なものもあれば、かかりつけの医者の定期診断といった単純なものもある。限られた手話通訳のメンバーでは、これらの依頼にすべてこたえることはできない。手話通訳派遣の取捨選択について激論がたたかわされた。1977年10月、京都における手話通訳の派遣センターである京都ろうあセンターの出来ごとである。
その結果、内容の単純なものについては手話通訳の派遣を行なわず、事前に依頼者の同意を得て病院の了解と協力を求めることになった。 そして、センターと病院は、この了解にもとづいて、双方の協議の場を設け、双方から手話通訳、ろう者、医師、看護婦、事務局員等が出席し、率直な意見の交換を行なった。このような協議の場を設けたことの成果は、場合によって病院側がろう患者の呼出し、診断、投薬等について、手話通訳によらず、自らの一定の配慮を行なうようになったことであり、患者の個性によって筆談、簡単な身振り、継続された協議の場においてマスターした指文字によって、患者とのコミュニケーションがある程度、計られるようになったことであり、ろう患者は、手話通訳の協力と自ら直接の努力によって健聴者とのコミュニケーションの確立を計らなければならないことを学んだことである。
当初、このことは手話通訳派遣にかわる手だて、一方的方便と考えられていた。しかし、それについて具体的な成果のあがるなかでこれもまた手話通訳の重要な任務と考えられるようになった。 ここに病院とろう者の人間関係の発達を見ることができる。また、ろう者は自由な行動の範囲をひろげることが出来たといえよう。こうした行動の自由の範囲の拡大こそ、ろう者要求の本質をなすものであり、ろう者の社会的自立のための人間関係の発達、社会制度整備の一里塚を示すものである。
手話通訳はすぐれた手話通訳技術者であることに先立って、すぐれた社会活動家であるべきである。幅広い市民層を結集する手話サークルは勿論、ろう者の日常生活に接する諸施設、諸機関、更に社会全体を対象として、ろう者と対等の協力者となって組織者あるいは社会啓蒙家として、ろう者の社会的自立のための条件整備に活動することが望まれる。 それは、すでに手話通訳でなく、手話通訳活動ともいえる広い範囲の行動を要請するものである。しかし、この手話通訳活動の成功は、ろう者のせまい世界にだけ反映するものではない。ろう者に対する人間関係の発達を含めた社会制度の整備は、底深いところで障害者全体に対する社会制度の発展にもつながるものである。 ここでは、ろう者、また手話通訳者は、社会制度の受動的な享受者ではなくなり、社会制度の発展の積極的な担い手として、自己とその協力者の存在を誇り得よう。
提出者 ; 高 田 英 一
安 藤 豊 喜
<研究誌メニューに戻る> <トップに戻る>