木のつぶやき | |
2002年12月1日(日) |
家永先生がなくなられたそうです。
教育基本法改正をめぐって、「中央教育審議会」が見直しの方向を示した中間報告が11月30日出された。「国を愛する心」を新たに盛り込むべきとのこと。そんな「戦前回帰」を感じさせる「いま」、家永先生が亡くなられた。時代がかつての暗黒の時代に大きくUターンしようとしているかの様な「いま」、何か先生の無念が伝わってくるような気がした。
経済が長期に停滞し、社会に閉塞感が充満している。未来の感じられる日本なら誰もが自然と日本を好きになるだろう。そうでないから、わざわざ「国を愛せ」と強要するような教育を欲する人たちが出てくるのだと思う。既得権にしがみつく人たちが、庶民に向かって「おまえ達は、何も考えずに国のためにつくせばいいのだ。引き続き俺たちがうまくやってやるから」と吼えている。
学生の頃、家永先生の教科書裁判の支援集会に参加して、家永さんご本人をお見かけして、そのあまりにも実直な人となりに驚いた。背筋のピンと伸びた身体から、信念に貫かれた言葉が吐かれた。
「ああ、教科書って、後の世代にキチンと歴史的真実を偽りなく客観的に伝え続けなければならないものなんですね、先生」と、勉強嫌いの歴史苦手な僕が、何か心の底から「歴史の勉強サボってきてスミマセン」って謝りたくなっちゃうような素敵な方でした。
家永先生の訃報に接して、改めて今の政治・社会の動きを目をかっぽじって見てなくちゃいけないなと反省した。「国を愛する心」という一見耳障りのいい文言で、「盲目的に国の言うことを信じる」国民を増やしたがってる輩の思うがままにさせちゃいけないと思う。
サッカー日本代表は大好きだけど、日本(国家)の言うことは何だって正しい(応援しちゃう)みたいなすり替えを許しちゃいけないと思うのだ。
<以下は、ヤフージャパンに掲載されたニュース記事です。>
訃報 |
![]() 32年に渡った教科書訴訟の原告として、日本の教科書検定制度のあり方に一石を投じた歴史学者で、東京教育大(現・筑波大)名誉教授の家永三郎さんが先月29日、心不全のため亡くなっていたことがわかった。89歳。 [写真]32年にわたる「教科書訴訟」で文部省検定の在り方を問い続けた歴史学者の元東京教育大(現筑波大)教授家永三郎(いえなが・さぶろう)氏が11月29日午後8時20分、東京都練馬区の病院で死去した。89歳だった。写真は1997年8月29日、東京・永田町の憲政記念館で教科書訴訟最高裁判決について記者会見する家永氏(時事通信社) |
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<訃報>家永三郎さん89歳=教科書訴訟原告、元東京教育大教授 32年間にわたる「教科書訴訟」で、旧文部省の教科書検定のあり方を問い続けた元東京教育大(現筑波大)教授の家永三郎(いえなが・さぶろう)氏が11月29日、心不全のため死去した。89歳だった。告別式などは行わず、親族のみで密葬を済ませた。家族の話では、29日夜に自宅で食事中に倒れたという。
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<読売新聞>
教科書裁判原告の家永三郎さん、89歳で死去 | |
32年にわたった教科書訴訟の原告として、日本の教科書検定制度のあり方に一石を投じた歴史学者で、東京教育大(現・筑波大)名誉教授の家永三郎さんが先月29日、心不全のため亡くなっていたことがわかった。89歳。 告別式などは本人の遺志で行わず、親族のみで密葬を行う。自宅の住所は公開していない。 1913年、名古屋市生まれ。37年に東大文学部卒業後、49年から東京教育大教授。 高校用歴史教科書「新日本史」を執筆し、62年度の文部省(当時)の教科書検定で、太平洋戦争中の記述などが原因で不合格処分となったことを不服として、65年に「検定は検閲にあたり違憲」と国家賠償を求め提訴。67年には2次、84年には3次訴訟を起こした。 一連の訴訟では、97年の最高裁判決で初めて3次訴訟の一部勝訴が確定。国の教科書検定は「見過ごしがたい誤りがある場合は違法」との判断を定着させた。 関係者によると、ここ数年は表だった活動は行わず、東京・練馬区内の自宅で静養を続けていた。先月29日夜に自宅で家族と食事中、急に体調が悪くなり、搬送先の病院で息を引き取ったという。(読売新聞) |
<毎日新聞>
<訃報>家永三郎さん89歳=教科書訴訟原告、元東京教育大教授 |
32年間にわたる「教科書訴訟」で、旧文部省の教科書検定のあり方を問い続けた元東京教育大(現筑波大)教授の家永三郎(いえなが・さぶろう)氏が11月29日、心不全のため死去した。89歳だった。告別式などは行わず、親族のみで密葬を済ませた。家族の話では、29日夜に自宅で食事中に倒れたという。 1937年、東京大国史学科を卒業。専攻は日本史学、日本思想史。旧制新潟高、東京高等師範学校(東京教育大の前身)で教鞭をとり、東京教育大、中央大教授を歴任した。 歴史学者として、1952年から高校教科書「新日本史」を執筆し、62年度の検定で323カ所が「不適当」と文部省から指摘され、65年に第1次訴訟を起こした。 憲法の精神を生かした民主的な教科書作りを進める立場で、訴訟も第2次、第3次と続けた。国による検定制度が違憲であるとの主張を貫いた。一連の訴訟は、国に損害賠償を求めた1次と、検定不合格処分の取り消しを求めた2次ともに家永氏が敗訴。検定制度も「合憲」とする司法判断が下されたが、80年代の検定の是非が争われた3次訴訟では、97年の最高裁判決で「南京大虐殺」「731部隊」などについて、検定意見の違法が確定し、訴えの一部が認められた。(毎日新聞) |
<それから家永さんの著作の中から僕が「読んでみたいな」と思った一冊を>
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わたしが思うこと 続 | |
著者: 家永三郎著 |
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■内容説明 |
「家永教科書裁判」32年間のたたかいを振り返って思うこと、法廷技術への自己批判、友人・丸山真男への別れの言葉など、最近のエッセイと、講演集を収録。 |
■著者紹介 |
1913年生まれ。東京帝国大学国史学科卒業。東京教育大学名誉教授。著書に「教科書裁判はつづく」「新日本史」「真城子」など。 |